会社案内

サッポロライオン 沿革

西暦
出来事
1899

明治32年8月4日 (創業日)

日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」誕生

日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」は、銀座の新橋際(京橋区南金六町五番地 現銀座八丁目)にオープンしました。

規模は35坪、入口から向かって左側にカウンターを設けニッケル製のスタンドを作り、床はリノリウム張り、イスやテーブルはビールの樽材でつくられ、また酒器はガラス製のジョッキで、当時としては極めてモダンな店でした。設計は工学博士である建築家の妻木頼黄氏に依頼し、奇抜な設計にしてもらった、と記録が残っています。

このビヤホールは、2階建ての煉瓦造りの建物の2階を間借りして開店したにも関わらず、当時有名だった小林習古画伯の壁画を飾るなどとても豪華な造りをした店舗だったため非常に繁盛しました。1日の来客数は平均800人に達しました。遠方から馬車でやってくる人もいたそうです。

【参考文献】「大日本麥酒株式會社三十年史」

なお、当時はビール500mlが10銭で販売されていました。当時は、もりそば1枚、コーヒー1杯が1~2銭、食パンが5~6銭程度でした。

「恵比壽ビヤホール」日露戦争戦勝記念風景
当時の新聞広告

日本初=世界初のビヤホール?「ビヤホール」は和製英語

「恵比壽ビヤホール」が実は世界初のビヤホールだという説があります。

ドイツでは中世の頃に醸造所が居酒屋を兼ねはじめ、その一角でビールを飲めるようになっていたそうですが、この一角が広間ならビーア・ハレ"Bier Halle"と呼ばれました。このビーア・ハレを英語に直訳すれば"beer hall"ですから、ドイツには中世からビヤホールがあった、と言っても問題ないように思われます。しかし実は、ドイツ語としての"Bier Halle"は存在するのですが、英語としての"beer hall"は存在していないのです。
ですので、この「ビヤホール」という和製英語を作ったのが馬越恭平、世界で最初にビヤホールを名乗ったのが「恵比寿ビヤホール」だったとも捉えられます。

「恵比壽ビヤホール」が大変繁盛したことから、開店の翌年には「ラムホール(砂糖水)」や「ミルクホール」などが現れるほど「ホール」という言葉が一般化していったそうです。

1904

明治37年

「恵比寿麦酒」セントルイス万国博覧会でグランプリ受賞

日露戦争勃発
1906

明治39年

大日本麦酒(株) (現サッポロビール(株))設立

1911

明治44年8月10日

銀座尾張町角に「カフェー・ライオン」開店(築地精養軒経営)
「カフェー・ライオン」外観
店内の様子

昭和6年(1931年)6月、築地精養軒から大日本麦酒(株)に経営が移り、同年8月30日に「ライオンヱビスビヤホール」として開店。その後戦火で焼失するものの、昭和21年(1946年)にバラック建てで営業を再開。幾度かの改装を経た後に、サッポロ銀座ビルの建て替えに伴い、昭和45年(1970年)6月、店舗は地下に移動して営業を開始。平成12年(2000年)12月に全面リニューアルを施し、現在の「ライオン 銀座五丁目店」に至ります。

昭和14年
昭和25年
昭和38年
昭和43年
1914

大正3年5月1日

「札幌狸小路ビヤホール」開店

大正3年に札幌麦酒(株)の直営ビヤホールとして開店。開店当初のビールはコップ1杯5銭で販売していました。ウェイトレスが首からカバンをぶら下げて、ホール内で食券を販売する姿が非常に評判になったといいます。
その後、昭和33年4月に経営が日本共栄(株)(サッポロライオンの前身)に移管し、昭和34年4月より建物の全面改装に入り一時閉鎖しましたが、翌昭和35年5月にリニューアルオープンし、現在の「ビヤホールライオン狸小路店」に至ります。

「札幌狸小路ビヤホール」外観
店内の様子
第一次世界大戦勃発
1918

大正7年7月5日

京橋区竹川町に「銀座ビヤホール」(現ビヤホールライオン銀座七丁目店の前身)が開店

第一次世界大戦を契機として、日本中が戦争景気に湧き立ちました。ビールも大正5年から国内需要が急増したと言われています。

1923

大正12年9月1日

関東大震災発生

この年の繁華街は、ことごとく灰と化し焼け残った渋谷道玄坂、牛込神楽坂、新宿、池袋などが代わって歓楽街となり、後年、都市膨張の先駆けとなりました。明治の銀座が消え、いわゆる「銀座八丁」が誕生しました。

1931

昭和6年6月

大日本麦酒(株)の名古屋工場の接待所として「浩養園」が開店

そもそも「浩養園」という名前は、文化文政年間に第11代将軍家斉公が隅田川畔に造った名園の名前であり、その後日本麦酒(株)の吾妻橋工場の一部として接待用に使用されていたことから、名古屋工場内の施設にも名付けられたとされています。
幾度かの改装を経て平成10年4月にリニューアルオープンし、平成12年9月に名古屋工場は閉鎖となりましたが「浩養園」は引き続き営業しています。

昭和37年当時
1934

昭和9年4月8日

現存する最古のビヤホール「ビヤホールライオン銀座七丁目店」が開店
昭和9年竣工当時

大日本麦酒(株)本社ビルとして、菅原栄蔵氏の設計により昭和9年4月8日に竣工。1階は「銀座ビヤホール」として4月26日より営業を開始しました。 この1階のビヤホールは開業以来、全く変わらぬ佇まいのまま「ビヤホールライオン銀座七丁目店」として現在に至ります。

1936

昭和11年11月16日

大日本麦酒(株)から外食部門が独立。共栄(株)が設立。(サッポロライオンの前身)

1937

昭和12年11月16日

新宿に「ヱビスビヤガーデン」開店

昭和12年に新宿の土地を購入し「ヱビスビヤガーデン」を開業。二年後の昭和14年 4月17日に「新宿ヱビスビヤホール」と改称し、2階建ての建物で営業を開始しました。戦火で一時消失したものの、昭和21年にバラックで再建。その後、幾度かの増改築をして、昭和48年4月25日、現在の「新宿ライオン会館」となりました。

昭和14年当時
1939

昭和14年

第二次世界大戦勃発
1945

昭和20年9月11日

「銀座ビヤホール」(現ビヤホールライオン銀座七丁目店)が進駐軍専用ビヤホールとして営業再開
昭和20年8月15日終戦。
戦時中の空襲のため、ほとんどのビヤホールは焼失または疎開のために取り壊しており、わずか「銀座ビヤホール」と「横浜ビヤホール」だけが空襲を免れ、「銀座ビヤホール」はこの年の9月11日より、進駐軍専用ビヤホールとしての営業となり、昭和26年12月31日まで一般の人々は入れませんでした。

当時の「銀座ビヤホール」
1951

昭和26年8月

「仙台ライオン」(現 銀座ライオン 一番町店)が開店。

昭和36年当時
1957

昭和33年4月1日

日本共栄(株)が、(株)サッポロビヤホール(札幌)、(株)広島ニッポンビヤホール(広島)、(株)ニッポンビヤホール(福岡)の3社を吸収合併

1964

昭和39年

東京オリンピック開催
1966

昭和41年2月

日本共栄(株)からサッポロ共栄(株)に社名変更

1979

昭和54年9月1日

サッポロ共栄(株)から(株)サッポロライオンに社名変更

1982

昭和57年9月

「和風ビヤホール 安具楽」1号店を新宿センタービル地下1階に開店

1988

昭和63年9月26日

東京証券取引市場第2部へ上場

1989

平成元年1月7日

昭和天皇崩御。元号が昭和から平成へ
1992

平成4年7月13日

「そば割烹 安曇野庵」1号店を神楽坂に開店

※神楽坂店は平成18年に閉店いたしました

当時の神楽坂店
1995

平成7年12月1日

「ダブリナーズ アイリッシュパブ」1号店を新宿ライオン会館の2階に開店

阪神・淡路大震災発生
サリン事件発生
1999

平成11年8月4日

創業100周年

2002

平成14年3月25日

「プライベートダイニング点(ともる)」1号店を渋谷ポーラビル地下1階に開店

2003

平成15年4月28日

「くつ炉ぎ・うま酒 かこいや」1号店を新宿ユースビル5階に開店

7月1日

サッポログループの純粋持株会社設立を柱とする事業再編に参画。株式交換によりサッポロホールディングス株式会社を通じた間接的な株式の上場形態に移行

2009

平成21年12月9日

サッポロビールと共同開発した「ヱビスバー」1号店を銀座コリドー街に開店

2011

平成23年3月11日

東日本大震災発生
2013

平成25年1月1日

Pokka Food(Singapore)Pte.Ltdの株式譲受による子会社化
※同年4月1日、称号を「SAPPORO LION(SINGAPORE)PTE.LTD」に変更

平成25年10月2日

「GINZA LION BEER HALL」シンガポール1号店開店

2015

平成27年1月1日

北海道・小樽のビヤホール運営会社 株式会社ニュー三幸を子会社化。

2016

平成28年6月1日

北海道・札幌の飲食業 株式会社マルシンカワムラ及び小売業 株式会社銀鱗水産を子会社化。

2019

令和元年8月1日

大阪市の飲食業 株式会社ハンエイを子会社化。

令和元年8月4日

創業120周年

2023

令和5年1月1日

北海道事業部と、株式会社ニュー三幸・株式会社マルシンカワムラを統合し、株式会社北海道サッポロライオンを創立。